K

環境リスク研究の周辺に関する私的考察

勢いで書いている節があります。ただ,何度か思い出して考えてしまうので,書きます。適宜,ご批判下さい。削除しろというご意見も歓迎します。

日本では,中西準子さんが環境リスクという概念を広めたと言っても過言ではない。環境リスクが指す意味や概念は広まってきたと思うが,果たしてそれが効果的に使われているだろうか。今回は環境リスクに関わる研究周辺で少しそれを考えてみたい。結論から先に言うと,
「リスクの理念に基づいて,”まっとうに”研究を進めている人は少ないのではないか」
あるいは,
「もっと研究のバランスの取りようがあるのではないか」
というのが私の感覚である。

リスクが”ない”物質の環境動態
化学物質の環境中の挙動を追う類の研究では,リスクはイントロで議論されないことが多く,大体は毒性があることが強調される。そういう場合,多くは既存の毒性試験と環境中濃度を比較した結果がすでにあって,オーダーが違う,つまり,リスクはほとんど懸念されないと当事者が感じている場合が多い。ひどい場合は,「いや,たぶんこの物質はリスクはないんですけどね。」なんて言葉が聞こえてくる。「その研究費はどこから来るんですか」という話である。つまり,研究計画を練る際に,あまりリスクが考えられていないというのが私の実感である。とても残念である。大きな要因ではないかもだが,なぜこのようなことが起こるのかというと,その一つは,学生が化学分析をしたいからというのもあると思う。いずれにしても大事なのは,そういうことは問題ではないですかね?という意見が内部から出てくることだと思う。仕分けでいろいろと言われていますが,こういうことが議論されるようになればおもしろいでしょう。

リスクが”ない”からの逃げ
リスクがないから,もうそんなに研究しなくてもいいんじゃないか?という意見に対する一つの応答は,おそらく「複合影響もあるかもしれない」というものだろう。「えええええええええ。じゃあ,それを明らかにしてから,測ってくださいよ」といいたくなる。ここ周辺は100年後には開発される予定だから,土地を先に買っておいた方がいいと言われるようなもんである。別にリスクがなさそうだから即座にやめてくださいということが言いたいのではなく,まずは全体を見渡して,もっとリスクを明らかできる方向に研究を進めていくべきではないか,ということが言いたい。そのためには,共同研究を目論んだり,自分の研究範囲を広げる必要がある。ぜひ,殻をやぶっていただきたい。

毒性がある=やばいな世界
上記の話と対照的に,毒性があれば”やばい”として研究する世界もある。早期影響発見のバイオマーカーになるからといって,遺伝子レベルなどいろんな研究がなされている。もちろんきちんと最終到達点がある研究はよいが,これ何に使えるの?という研究も少なくない。こちらも,リスクを意識すべき。

蓄積している=やばいな世界
残念ながら,こういう世界もある。化学物質が体内に蓄積していることは確かに汚染の指標にはなるけど,その濃度からどれくらい影響があるかは,ほとんどの場合わからない。最悪のパターンは,蓄積があるから,環境動態を調べないと!とかって流れである。リスク君はどこにいったんだろうと思う。

論文になる
上記いずれの研究も,もちろん論文になる。ジャーナルに載る最新の研究を押さえておけば,リスクとか管理とかどうこう言わなくても,論文になる。ナイス。イケテル。国際雑誌もそんなもんである。そのうち,研究者のための研究者による研究者の雑誌になったりして。

困っている人を探す
大事なことは,その研究は困っている人を助けるために前向きに行っているものか?ということじゃないだろうか。あるいは,困っている人を見つけて,その人を助けられるような研究を実施するじゃないかと思う。潜在的に困るかもしれないという場合は除いて,誰も困っていないことを研究する必要性は大きくない。

環境科学の基礎科学な側面
応用科学だって,基礎科学的な側面は持っていて良いと思う。上のように否定的なコメントを書いたが,要はバランスである。ただ,今のバランスはあまり良いとは思えない。というのが私の感想である。

管理を意識すべき
そのまま。どう管理すべきかという課題を考えると,見えてくることも多い。

最後に
ここに書いてあることは,どのレベルを最適化したいかという各個人の思想にも依存する。当然,他人なんてどうでもいい,俺が生きて行ければいいんだという状況なら,上の文章はほとんど意味がないでしょう。まぁそういう人はこの分野にいない気もしますが。
科学で絶対は言えません。なので,その取り方によっては,私の意見に賛同できない人もいるとは思います。